サメ映画の原点にして頂点『ジョーズ』の中に、漁師クイントが過去にサメに襲われた経験について話すシーンがあります。
魚雷を打ち込まれ沈みゆく船、海に投げ出される船員たち、助けが来ない中で襲ってくる人喰いザメ・・・。
クイントが淡々と話しているだけにもかかわらず、非常にシリアスで印象的なシーンに仕上がっており、映画を観ていれば記憶に残っていると思います。
では、この話が実話をもとにしているのはご存知でしょうか?
実際に第二次世界大戦中にアメリカ海軍の船が沈没し、何百人もの船員がサメのいる海に投げ出され、その多くが命を落とす大惨事が起きました。
本記事では、史上最悪のシャークアタックとされる「インディアナポリス号沈没」の詳細を、『ジョーズ』で語られた内容との比較やサメの解説を交えながら紹介していきます。
解説動画:史上最悪のサメ事故?インディアナポリス号沈没とシャークアタックについて解説【太平洋戦争】【人喰いザメ】
このブログの内容は以下の動画でも解説しています!
※動画公開日は2024年7月14日です。
インディアナポリス号の極秘任務
USSインディアナポリス号はアメリカ海軍が所有していた重巡洋艦です。
全長186m、幅約20m、排水量はおよそ9800トンに上り、1200名以上の乗員を載せることができました。
第二次世界大戦中の1945年、沖縄戦で受けた損傷を修理していたインディアナポリス号に、ある重要なミッションが課されます。
それが、当時としては最新の大量破壊兵器である原子爆弾の部品および濃縮ウランを、米国からマリアナ諸島のテニアン島まで輸送することでした。
ただし、当時船長だったチャールズ・B・マクヴェイ3世を含む乗組員は、自分たちが何を運ばされているか知りませんでした。
木の箱に包まれたその積み荷の詳細は一切明かされないまま、「いかなる理由があっても無事に運び届けるように」という命令がなされ、もし船に何かあった場合は乗組員よりも積み荷の安全を確保するよう周知されました。
当時の乗組員の一人は後のインタビューで以下のように語っています。
There were marine guards around it 24/7 and nobody knew what it was. Even the marine guards didn’t know.
(24時間体制でずっと海軍の警備がついており、船員の誰にとっても積み荷の正体は謎だった。警備係ですら中身を知らなかった)
『The deadliest shark attack in history: USS Indianapolis survivor recounts ordeal 75 years on』より引用。ハロルド・ブレイ氏の証言。
1945年7月16日、インディアナポリス号はそんな謎の貨物と乗員1196人を載せて米国サンフランシスコから出航。
7月19日に真珠湾に寄港したのち、7月26日に目的地のテニアン島に到着しました。
極秘任務だったこともあり護衛艦なしでの航海でしたが、このテニアン島に向かう時点では何も起こらず、インディアナポリス号の最重要ミッションは無事終了しました。
そして、この時届けられた部品と濃縮ウランによって、後に広島に投下された原爆リトルボーイが完成することになります。
魚雷攻撃と沈没
1945年7月28日、極秘任務を完了した後グアムに派遣されていたインディアナポリス号は、日本侵攻のためフィリピンのレイテ島に向かうことになります。
この時、マクヴェイ船長は潜水艦からの襲撃に備え護衛艦を要請するも却下されてしまい、またしても単独での航海となりました。
同年7月30日のちょうど真夜中を過ぎたころ、日本海軍の橋本以行が艦長を務める伊号第五十八潜水艦が発射した6発の魚雷のうち2発が、インディアナポリス号を直撃します。
一発目の魚雷は船首右舷に命中し、船首の一部を吹き飛ばしました。発生した炎が約13,000リットルの燃料に引火し、高さ100m以上の火柱が発生します。
もう一発の魚雷は火薬庫があった船の中央部分に命中し、連鎖的な爆発を引き起こしました。
2発の魚雷攻撃により、全長186mもある船体はほとんど真っ二つに裂け、インディアナポリス号はわずか12分で沈没してしまいます。
なお、『ジョーズ』の中でクイントは「極秘任務だから救難信号を送れなかった」と言っていますが、実はこの時インディアナポリス号から救難信号は送られていました(そもそも沈没したのは極秘任務の完了後です)。
事情が複雑かつ諸説あるので詳細は省きますが、彼らの救難信号は「罠の可能性が疑われた」などの理由で正しく対応されず、船による捜索などは行われませんでした。
また、様々な伝達ミスが重なったことで、インディアナポリス号がレイテ島に到着予定であることや、その予定日が7月31日であるという情報が、外部の上官たちに正しく伝わっていませんでした。
こうした様々な事情により、インディアナポリス号が沈没したという事実を誰も認識していないまま、生き残った乗組員たちは何日も海の上で過ごすことになってしまいます。
忍び寄る人喰いザメ
1945年7月30日の夜明けごろ、生き残った乗組員たちは海を漂っていました。
限られた数しかない救命ボートと救命胴衣を頼りに、彼らは大小いくつかのグループで固まり出します。
乗組員たちの周りにはまだ船に乗せていた物資の一部や、無事に脱出できなかった仲間の死体が浮かんでいて、生き残るために死体から救命胴衣を手に入れる船員もいました。
そんな彼らの周りに、おびただしい数のサメたちが集まってきます。
サメはまず聴覚で獲物の存在を遠くから感知し、嗅覚を使って獲物がいる方向を把握し、さらに振動を感じる側線や視覚によって具体的な獲物の居場所を認識します。
あくまで推測ですが、船が沈む音や生存者がもがく水音が最初の刺激となり、やがて傷ついた船員から流れる血などを頼りに、外洋を泳ぎ回るサメたちが集まって来たものと思われます。
初日の夕暮れまでにサメの数は100尾を超え、生存者たちを囲むように泳ぎながらその場に留まるようになりました。
やがてサメたちは海に浮かぶ乗組員の死体を貪るようになります。
インディアナポリス号の生存者を襲ったサメの種類
インディアナポリス号の沈没で人を襲ったサメとして、最も有名なのはヨゴレです。
名前の通り白く汚れたような模様がヒレ先にあるのが特徴で、大きさは2~3m前後になる外洋性のサメです。
グライダーのように優雅にゆっくりと泳いでいるかと思えば、急に方向転換して向かってくるなど予測しづらい動きをしたり、攻撃性を発揮することがあります。
そのため、人間と出会う機会自体は少ないものの、潜在的に危険なサメとされています。
インディアナポリス号が沈没した後にヨゴレがやってきたことを裏付けるように、マクヴェイ船長は以下のような証言しています。
You could see his big dorsal fin and it was white, almost as white as a sheet of paper.
(サメの背鰭は大きく、まるで紙のように白かった。)
『Oral History -The Sinking of USS Indianapolis Recollections of Captain Charles B. McVay, III, USN, Commanding Officer of USS Indianapolis (CA-35) which was sunk by Japanese submarine I-58 on 30 July 1945 near the Philippines』より引用。チャールズ・マクヴェイ三世氏の証言。
外洋を泳ぎ回り、人を襲うほど大型で、かつ大きな白い背ビレを持つサメは、ほとんどヨゴレに限られます。
マクヴェイ船長の証言も考えると、インディアナポリス号の沈没後にヨゴレが来たことは間違いないでしょう。
本当にヨゴレだけだったのか?
ただし、襲ってきたのがヨゴレだけだったとは思えません。
外洋でヨゴレが漁獲される際は、ヨシキリザメ、アオザメ、クロトガリザメなどのサメも一緒に捕獲されることが多いので、こうしたサメたちも集まっていたと思います。
実際に一部の文献には、アオザメやイタチザメもいたと記載されています。
ヨゴレを含むこうしたサメたちは日和見主義的捕食者(Opportunistic predator)です。つまり、特定のものを食べるために集まるというより、その海域で豊富にあるものをとにかく食べるのです。
基本的にサメが人間を狙って襲うということはありませんが、エサと出会う機会が限られる外洋性サメたちにとって、海に浮かんでいる弱った動物は全て獲物になり得ます。
そのため、インディアナポリス号の乗組員たちのことも、鯨の死体か何かと同じような認識で食べていたと考えられます。
背鰭が印象的だった?
「インディアナポリス号と言えばヨゴレ」というイメージがある理由の一つとして、ヨゴレが最も特徴的なヒレが挙げられると思います。
サメの見分けは一般に思われているよりも難しく、背鰭だけで区別するというのは専門家でも困難です。
そもそも船員たちは後で述べる通り極限状態で衰弱していたので、サメの種なんて区別する余裕はなかったでしょう。
しかし、ヒレ先が白いサメというのは非常に限られており、サメに詳しくない人にでもヨゴレの背鰭は印象に残ります。
こうした事情から、実際には複数種のサメが集まっていたにもかかわらず、「インディアナポリス号で人を襲ったサメといえばヨゴレ」というイメージが強化された可能性はあると思います。
生存者を襲い始めるサメたち
ひとしきり死体を食べたサメたちは、やがて生存者も襲い始めます。
船員たちはグループを作った方が襲われにくいと考え固まり始めますが、傷を負っている者や出血している者を中心に、一人、また一人と犠牲になっていきました。
生還した方の証言が、当時の恐ろしい状況を物語っています。
In that clear water you could see the sharks circling. Then every now and then, like lightning, one would come straight up and take a sailor and take him straight down.
(透き通った水の中でサメが周りをグルグルと泳ぐ様子が見えた。雷のごとくまっすぐ向かってきて、船員を捕まえるとまっすぐ水中に引きずり込んだ)
We were losing three or four each night and day.
(昼と夜が来るたびに3~4人はやられていった)
You were constantly in fear because you’d see ’em all the time. Every few minutes you’d see their fins – a dozen to two dozen fins in the water.
(常にサメが見えるので気が休まるときはなかった。数分おきに10~20以上の背ビレが見えていた)
They would come up and bump you. I was bumped a few times – you never know when they are going to attack you.
(彼らは水面に現れぶつかってきた。自分も何度かぶつかられた。いつ襲われてもおかしくない状況だった)
『USS Indianapolis sinking: ‘You could see sharks circling’』より引用。ロエル・コックス氏の証言。
船員の何人かはサメの攻撃に対し水をたたいたり蹴ったり叫んだりして抵抗しました。
なかには襲われたくないがために負傷者を自分から遠ざける船員もいたそうです。
生存者を苦しめたサメ以外の要因
『ジョーズ』のクイントはサメに襲われる恐怖のみ語っており、実際「インディアナポリスといえばサメ」というイメージがあります。
しかし、当時の船員たちを疲弊させ、命を奪ったのはサメだけではありませんでした。
漏れ出した油
インディアナポリスが魚雷の攻撃を受けて沈むとき、大量の燃料が漏れ出ていました。
この油が眼に入ることで一時的に視力を奪われたり、燃料を飲み込んで体調を崩す船員がいました。
また、身体に油がまとわりつくことで上手く泳ぐことができなくなる、救命ベルトが浸食されて浮力を失ってしまうなど、生存者たちの体力を余計に奪う原因にもなりました。
日光と激しい気温変化
日陰をつくるものが周りにない海のど真ん中にいる乗組員たちは、容赦なく降り注ぐ真夏の日差しを浴び続けました。
船釣りをしたことがある人は分かると思いますが、海の上で浴びる日光の威力はすさまじく、何も対策しなければ重度の日焼けや脱水症状を起こします。
そして、日中の熱さが夜は寒さに変わり、救命イカダのない船員たちは水に浸かった状態で冷たい夜風にさらされました。
生存者の一人は後にこう語っています。
It was so hot we would pray for dark, and when it got dark we would pray for daylight, because it would get so cold, our teeth would chatter.
(あまりにも熱いので暗くなるのを願ったが、暗くなってから歯がガチガチ言うほど寒くなったので、日光を待ちわびていた)
『USS Indianapolis sinking: ‘You could see sharks circling’』より引用。ロエル・コックス氏の証言。
飢えと渇き
船に積んであった食料や飲み水を手に入れる船員もいましたが、当然それだけで足りるわけがありません。
多くの船員がほとんど飲まず食わずの状態で過ごしました。
そして、極限状態まで追い詰められた生存者の一部は、海水を飲むという禁忌を犯してしまいます。
海水を飲むと脱水症状が悪化し、最悪の場合は死に至ります。
もちろん海水がタブーであることは船乗りなら常識ですが、インディアナポリス号の乗組員のほとんどが訓練を終えたばかりの若者だったためか、それとも理性で止められないほど渇きに追い込まれていたのか、一部の船員は海水を飲んでしまいました。
海水を飲んだ船員はすぐに衰弱し、命を落としていきました。
幻覚や発狂
海水を飲んでしまったり、疲労と恐怖で限界を超えてしまった乗組員たちは、次第に幻覚を見るようになります。
水平線の向こうに幻の島を見る者、存在しない救助隊と交流する者、ダンスする女性を目撃する者など様々で、沈んだはずのインディアナポリス号を見つける者もいました。
ある船員は、「インディアナポリス号はすぐそこにある。船まで飲み水を取ってくる」といって潜った後、真水だと本人が思っている海水を飲んでしまい、その後すぐ亡くなってしまいました。
自殺や殺し合い
極限状態で追い込まれる中、一向に救助が来ない状況に絶望した船員の一部が自ら命を絶ってしまうこともありました。
ある船員は力尽きた状態で救命胴衣を脱ぎ捨てて沈んでいき、またある者はサメに襲われるまでひたすら泳ぎ続け戻ってきませんでした。
さらに、幻覚と疲労で正気を失ってしまったのか、他の生存者を日本兵だと思い込んでナイフで襲う者まで現れ、一部のグループでは殺し合いにまで発展しました
このように、インディアナポリス号の乗組員たちは様々な要因に苦しめられ、命を落としていきました。
サメによる犠牲者数は数十人から150人まで諸説あるものの、いったい何人がサメの犠牲になり、何人が他の要因で亡くなったのか、もはや正確な内訳を把握するのは不可能です。
しかし、船員たちを襲った脅威がサメだけではなかったということは、ご理解いただけますと幸いです。
発見と救出
船の沈没から4日が経過した1945年8月2日 午前11時頃、日本軍の潜水艦を空から捜索していたウィルバー・グウィン大尉によって、ついに漂流している乗組員たちが発見されます。
グウィン大尉は最初に大きな油の膜を見つけ「潜水艦から漏れ出たものかもしれない」と思い旋回を始め、やがてインディアナポリス号の乗組員たちに気付きます。
この時初めて、インディアナポリス号が沈没したこと、そして未だ助けを待つ生存者がいることが外部に明らかになりました。
グウィン大尉の無線を聞いてやってきたエイドリアン・マークス中尉は、当初着水しないように命令を受けていましたが、生存者たちがサメに襲われているのを目撃したことで命令を無視して着水。負傷者を機体に乗せて回りました。
その後、海軍の船が続々と救助に訪れ、当初乗船していた1196人のうち、300人ほどが生存者として救助されました。
救助活動は翌日まで続き、インディアナポリス号沈没から始まった地獄のような日々は、8月5日に終わりを迎えます。
沈没の後日談:マクヴェイ船長の悲劇
生存者たちを最後まで支えてきた船長であるマクベイは、なんと軍法会議にかけられます。
攻撃された時間に魚雷攻撃を避けるためのジグザグ航行をしておらず船を危険にさらしたとして、沈没の責任を追及されてしまったのです。
しかし、この責任追及は以下の理由により、明らかに不当なものだったと言えます。
- 夜間にジグザグ航行をするかどうかはマクヴェイ船長の裁量に任されており、実際に彼は完全に闇夜になるまではジグザグ航行していた。
- 船を沈没させた潜水艦の艦長である橋本は「仮にジグザグ航行をしていても魚雷を命中させることはできた」と証言している。
- 米国海軍はインディアナポリス号が沈没した海域に日本軍の潜水艦が潜んでいるという情報を把握しておきながら、マクヴェイ船長に伝達していなかった。
- マクヴェイ船長の要請があったにもかかわらず、司令官は護衛艦を同行させなかった。
- 救助が遅れて大勢の乗組員が犠牲になったのは、マクヴェイ船長とは直接関係のない情報伝達ミスが原因だった。
米国海軍の上層部は、この悲劇の責任をマクヴェイ船長一人に押し付けようとしていたのです。
結局マクヴェイ船長は有罪になり、第二次大戦中に軍艦を沈没させた罪で有害になった唯一の艦長になってしまいます。
当事者である生存者たちの中にマクベイ船長を非難する者はほとんどいなかったそうですが、犠牲者遺族の中には「お前のせいで息子のいないクリスマスを迎えることになった」などと嫌がらせの手紙を送る人もいました。
その後マクベイ船長は再婚して新しい家庭を築き、生還者たちの同窓会に出席したこともあったのですが、1968年11月6日に自宅で自らの頭を撃ち抜き、その生涯を終わらせてしまいます。
沈没から何年も経ってからなので真意は分かりませんが、あの沈没さえなければ、不当に裁かれることがなければ、こんなことにならなかったのではないか。そう思えてなりません。
なお、マクヴェイ氏が亡くなってから30年以上経った2000年10月25日、当時のクリントン大統領が「マクヴェイ氏はインディアナポリス号の沈没について無罪であった」という旨の決議に署名し、彼の名誉は回復されました。
この名誉回復のために、インディアナポリス号の生存者や橋本氏などの関係者にくわえ、少年時代に『ジョーズ』を見てインディアナポリス号のことを知ったハンター・スコット氏をはじめとする多くの人々が活躍しました。
先述の通り、『ジョーズ』でクイントが語ったインディアナポリス号のエピソードには史実との相違がありましたが、この出来事を世に広めることで、プラスの影響ももたらしたと言えるかもしれません。
インディアナポリス号の悲劇の責任は誰にあるのか?
今回改めてインディアナポリス号の沈没について調べていて感じたのは、この出来事は誰かが圧倒的に悪いというものではなく、ただただ壮絶で悲惨だということです。
魚雷で船を沈めたのは日本軍ですが、戦時中に敵を攻撃するのは当たり前ですし、彼らも船員たちをここまで苦しめたいと心から望んで実行したわけではないと思います。
インディアナポリス号の乗組員達は後に大勢の命を奪う原爆を輸送しましたが、中身を知らないまま任務に当たりました。また、乗っていたのは若くて経験の浅い軍人ばかりで、ここまでの仕打ちを受けるべきだったとは言えません。
救助が遅れたことについても、誰か一人のミスというより、様々な要因が重なった結果でした。
ではサメが悪いのかといえば、彼は自分たちの棲んでいる場所に現れたエサを食べただけです。人間にとって残酷でも野生動物として当たり前ですし、そもそも船員たちの死因はサメだけではありません。
月並みな感想かもしれませんが、誰が悪いとか正しいとか関係なく多くの人が傷つき命を失ってしまうことが、戦争の恐ろしさなのかなと改めて思いました。
今後このような悲劇が繰り返さることのないよう、願うばかりです。
参考文献
- 9 News(Richard Wood)『The deadliest shark attack in history: USS Indianapolis survivor recounts ordeal 75 years on』2020年
- BBC(Alex Last)『USS Indianapolis sinking: ‘You could see sharks circling’』2013年
- Doug Stanton『In Harm’s Way (Kindle Edition) 』2012年
- Live Science(Lydia Smith)『What is the deadliest shark attack ever recorded?』2023年
- Naval History and Heritage Command『Oral History -The Sinking of USS Indianapolis: Recollections of Captain Charles B. McVay, III, USN, Commanding Officer of USS Indianapolis (CA-35) which was sunk by Japanese submarine I-58 on 30 July 1945 near the Philippines』2020年
- The Palm Beach Post(Staci Sturrock)『USS Indianapolis: How three men survived the depths of horror』2014年
- Smithsonian Magazine(Natasha Geiling)『The Worst Shark Attack in History』2013年
- The Sun(Katie Davis)『BLOOD IN THE WATER Inside deadliest shark attack EVER as 150 sailors from USS Indianapolis eaten alive after warship sunk in WW2』2021年
- ナショナルジオグラフィック日本版『原爆を運んだ米軍艦、撃沈から70年 日本の潜水艦により沈没、生存者が集まった』2015年
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インディアナポリス号沈没について描いたノンフィクション作品や映画があります。
小説の方は洋書ですが、かなり詳細に書かれているのでオススメです。
よろしければ是非ご参照ください。
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